2014年5月2日金曜日

わが国だけの現象

渋谷で、不倫反対デモというのに出会ったが、ああいうデモもあるのだ。不倫反対だの、援助交際反対だの、そういったプラカードを立てて行列していた。小学生ぐらいの子にプラカードを担がせ、その手をひいていた母親もいた。あれは、どういう団体なのか。プリンバンダイと叫ぶでもなく、ただぞろぞろと歩いていたが、デモも、いろいろとあるもんだ。

江戸時代、中国人を唐人と言った。後に、中国人だけでなく、他の外国人も唐人と言うようになったが、毛唐は毛むくじやら唐人のこと、つまり欧米人のことで差別語である。今はもう、毛唐などという差別語を使う人はいないが、私は、茶髪の人たちを、ニセ毛唐さんと呼んでいる。これも差別語であろう。私には、どこの国の人であれ、外国人を差別する気持はまったくない。しかし、欧米人の真似をする日本人を、情けなく思う。

背広を着て、ネクタイを締めて、靴をはいているのだって、もとは欧米人の真似である。だからといって、洋服を着て、靴をはくことまで情けないとは思わない。それに、服装だの、髪形だのは個人の自由である。学生は校則にしばられるということもあるだろうし、組織のルールや常識で人をしばる。しかし、それが許されるところなら、頭髪の色など、金色にしようが、緑色にしようが、本人の自由である。だがそれを見て、ニセ毛唐さんぶりを笑うのも、情けないと思うのも、自由である。

大衆が流行に乗って一様になるのは、もちろん、わが国だけの現象ではない。それは、どこの国にも、どの民族にもあることだろう。けれども、日本人のそれは、どこの国、どの民族にもまして、速くて、広がりが大きいもののように思える。組織にしばられると素直に一様になる。戦争中、国の指導者がスローガンを掲げ、号令をかけると、国民はこぞってその指導に応じ一様化したが、戦争に負けて、それまでの指導者が追放され、さあこれからは民主主義だ、個人主義だ、自由だ、と言われても、やはり、一様化する。

私の仕事部屋のある東京青山の表参道。部屋を一歩出ると、通行人があまりにも一様化しているので、うんざりする。ケイタイデンワを握り、リュックサックを背負い、頭髪の色を変えたニセ毛唐さんたちの群れ。なんと、お婆さんまで、頭髪を黄色に変え、リュックを背負って歩いている。