2013年11月5日火曜日

国王が推し進めた民主化

通信網に関しても、電話線の設置は最低に押さえられており、電話は一挙に、衛星通信、マイクロウェーブ中継によっている。そして携帯電話の普及が目覚ましく、導入以来二年ほどで、加入者は一〇万人近くに達している。もちろんティンプなどの都市部に集中しているが、それでも全人口が約六〇万人であることを考えると、高い普及率である。ブータンは全土が山岳地帯であり、集落がなく、家々が点在しているが、太陽光発電と、衛星通信、マイクロウェーブ中継により、非常に短期間のうちに、ほぼ全国に通信網が張り巡らされることになった。

政治面での第四代国王の最大の業績は、なんといっても民主化であろう。民主化の動きは、すでに「近代ブータンの父」と称えられる第三代国王ジクメードルジェーワンチュック(一九二八-七二)の治世(一九五二-七二)に始まった。一九〇七年にウギェンーワンチュック(一八六二-一九二六)により樹立されてから、第二代国王ジクメーワンチュック(一九〇五-五二。在位一九二六―五二)により基盤が固められたワンチュック世襲王制は、国王親政による絶対王政であった。しかし、第二次世界大戦後に即位した第三代国王は、時代の流れを先読みし、国会の設立(一九五三年)、奴隷制の廃止(一九五六年)といった一連の先進的政治・社会改革を敢行し、ブータンを中世から一挙に近代にもたらした。

国会は設立当初、その決議が効力を持つのには国王の承認が必要であった。つまり国王には否認権が認められていた。ところが一九六八年に、第三代国王自らがこの否認権を放棄し、国会はブータンの最高立法機関となった。翌一九六九年には国王自ら、「国会は国王不信任案を提出でき、それが三分二以上で可決された場合、国王は退位し、王位を皇太子に譲らねばならない」という追加条項を提案した・前年の否認権の放棄に続く矢継ぎ早の革新的な提案で、第三代国王の急進的な政治改革意識に、国会のほうがたじろいだ感じであった。しかし審議の末、結局は承認されることになった。

その三年後一九七二年に第三代国王が急逝し、皇太子が弱冠ヱハ歳で第四代国王として即位した。規定では新国王の成人まで摂政が任命されることになっていたが、国会は、新国王は若年とはいえすでに成熟しており、自ら統治できると判断し、国王親政となった。実質上は、母君である皇太后による「院政」であった。いずれにせよ、翌一九七三年には、今度は国会側の発議で、国王不信任案条項が廃止され、一九六九年以前の体制に逆戻りすることになった。そして、一九八〇年代には皇太后「院政」から、徐々に完全な国王親政に移っていった。

一般に国王親政と言うと、専制政治が思い浮かび、否定的な評価が付きまとう。しかしブータンの場合、第四代国王はけっして威圧的な存在ではなく、国民からの絶大な尊敬と信任を得ていた。にもかかわらず国王は、世襲王制に関して「一人の人間が、その能力のいかんに拘わらず、その生まれによって、一国の最高責任者になるという制度は、けっして最上の政治形態であるとは思わない」という旨の発言を繰り返した。と同時に、第三代国王に倣って、まだ政治意識の薄い国民に先駆けて、自ら民主主義体制を整備する措置を次々に採り、むしろ政府、国民のほうが後を追いかける形となった。国王は、国民参加型の責任ある政府づくりという目標に向かって、ゆっくりとした、しかし堅実な歩調で、根本的な改革を着実に導人した。