2014年5月23日金曜日

変数の影響

成功の秘訣は実験群だけを独立変数の影響の下に置くのである。この場合二つの集団を等質にするためには、無作為化(randomization)といって、硬貨を投げて抽選をするように、無作為に被験者を選んで二つの集団に配分する方法がある。またマッチング(matching)といって重要な変数、たとえば知能指数と年齢を考慮して、人為的に等質な集団を作る方法もある。二つの方法を組み合わせればより確実に等質な集団を作れるだろう。これらの方法をとる理由は例えば実験群に、高学歴者が集中するような場合が生じると、教育水準の影響によって実験の結果がゆがんでくるからである。

言いかえれば、「等質」な集団を作るというのは、例えば教育水準、知能、職業、年齢、出身地あるいはわれわれの気づかない、その他の変数に関して、同じような特徴を持っている集団を、二つ作ることである。もし二つの集団が「等質」であるならば、両集団の態度における差は一にかかって独立変数の有無によると、結論できるからである。

さて実験的方法の典型的な手続きを「イギリスの闘い」の例に従って述べると、まず実験群においては、フィルムを見せる前と後とに態度の測定を行う(馬)。そうすれば、実験群における態度の変化は、事後の態度測定値(民)から事前の測定値(瓦)を引くことによって得られる。そしてこの態度の変化は「フィルムの効果」と「他の変数の影響」との和に他ならない。これに対して同様の方法によって得た統制群における態度の変化には、「フィルムの効果」が含まれていないから、当然「その他の変数の影響」だけによって生じた変化ということになる。

ここまで来れば純粋の「フィルムの効果」を引き出す算術は簡単である。実験群における変化から、統制群の変化を引けばよいのである。言うまでもない。実験群における変化は「フィルムの効果」と、「他の変数の影響」の和であった。これに対して統制群の変化は、「他の変数の影響」だけによるものであった。しかも実験群と統制群とが無作為化の方法によってほぽ同質の集団であれば、両者における「他の変数の影響」は、実質的に等しくなる。従って実験群における変化から統制群における変化を引けば、「フィルムの効果」だけが残ることになる。

2014年5月2日金曜日

わが国だけの現象

渋谷で、不倫反対デモというのに出会ったが、ああいうデモもあるのだ。不倫反対だの、援助交際反対だの、そういったプラカードを立てて行列していた。小学生ぐらいの子にプラカードを担がせ、その手をひいていた母親もいた。あれは、どういう団体なのか。プリンバンダイと叫ぶでもなく、ただぞろぞろと歩いていたが、デモも、いろいろとあるもんだ。

江戸時代、中国人を唐人と言った。後に、中国人だけでなく、他の外国人も唐人と言うようになったが、毛唐は毛むくじやら唐人のこと、つまり欧米人のことで差別語である。今はもう、毛唐などという差別語を使う人はいないが、私は、茶髪の人たちを、ニセ毛唐さんと呼んでいる。これも差別語であろう。私には、どこの国の人であれ、外国人を差別する気持はまったくない。しかし、欧米人の真似をする日本人を、情けなく思う。

背広を着て、ネクタイを締めて、靴をはいているのだって、もとは欧米人の真似である。だからといって、洋服を着て、靴をはくことまで情けないとは思わない。それに、服装だの、髪形だのは個人の自由である。学生は校則にしばられるということもあるだろうし、組織のルールや常識で人をしばる。しかし、それが許されるところなら、頭髪の色など、金色にしようが、緑色にしようが、本人の自由である。だがそれを見て、ニセ毛唐さんぶりを笑うのも、情けないと思うのも、自由である。

大衆が流行に乗って一様になるのは、もちろん、わが国だけの現象ではない。それは、どこの国にも、どの民族にもあることだろう。けれども、日本人のそれは、どこの国、どの民族にもまして、速くて、広がりが大きいもののように思える。組織にしばられると素直に一様になる。戦争中、国の指導者がスローガンを掲げ、号令をかけると、国民はこぞってその指導に応じ一様化したが、戦争に負けて、それまでの指導者が追放され、さあこれからは民主主義だ、個人主義だ、自由だ、と言われても、やはり、一様化する。

私の仕事部屋のある東京青山の表参道。部屋を一歩出ると、通行人があまりにも一様化しているので、うんざりする。ケイタイデンワを握り、リュックサックを背負い、頭髪の色を変えたニセ毛唐さんたちの群れ。なんと、お婆さんまで、頭髪を黄色に変え、リュックを背負って歩いている。