2015年3月7日土曜日

まるで変わらないお粗末な金の使い方

ところで日本の財政運営の実態が「この期に及んで」とはき捨てたくなるほどお粗末な内容を含んでいることも事実である。財政が政治の金銭的表現であることを考えれば、とりも直さず性懲りもなく既存のシステムに寄生する日本の政治の問題である。より具体的には、お粗末な政治家だちと、彼らを選び出している有権者の問題である。

その最たるものは、公共投資である。景気対策のため、建設会社が消化しきれないこともあるほどにばらまかれているが、日本が将来に向けて必要とする公共的基盤への集中的配分が行われていない。

相も変わらず道路、河川、港湾、農業基盤。要するに建設省、運輸省、農水省の官僚と各種事業にはりついた「族」議員たちの組織、票田、利権を守るための支出である。

日本の社会と企業が大急ぎで進めねばならない構造転換に即していえば、何よりも高齢化と情報化のための基盤投資を急増させる必要がある。このことが言われてすでに十年余。

つまりは日本が米国などから憐みと軽侮の目をもって見られるに至った「九〇年代」が始まる前から、各方面で言われてきた。年々の予算編成の中でも「目玉商品づくり」に、この高齢化と情報化が言われてきた。

しかし、日本の都市も農村も、高齢者が安心して歩けるような姿に変わってきた形跡はない。介護施設といえば、相変わらず「姥捨て山」を思わせる集合住宅にすぎない。介護のマンパワーの貧弱さとも相まって、日本の介護システムは、全体として老人の活力を奪うものとしかいいようがない。

情報化投資のお粗末さもまた、目を覆うばかりである。端的にいえば、日本の国上のすみずみまでが、たとえば十円玉一つぐらいで完全につながり、米国のように小規模の情報ビジネスが雲霞のごとく立ち上かってくるような通信システムを確立するための光ファイバー投資などを急ぐべきだろう。それはもちろん、海外ともつながることのできるものでなければならない。