2012年9月3日月曜日

絶望にいきつく道

絶望にいきつく道では悲哀からさらに力つきて最後にいたる道がもっともなだらかな道だろうが、これと別に自分のあるく道が先方からふさがれて、世界とのつながりが断たれてしまうこともある。自分は生きたいのだが、まわりが生かしてはくれないといった場面におかれれば、私どもはいやおうなしに絶望させられてしまう。戦場で敵軍の重囲におちいり、脱出ののぞみなく、そうかといって降伏もゆるされぬような極限の状況、あるいは逃走中の重犯罪者が、自分のすぐそばまで逮捕の網が近づいてきたのを察したときなどがそれだということは説明するまでもない。

だれにもそれとすぐ納得のいくこうした絶望のほかに、まだ絶望の道かおる。それはごくありきたりのものではないかもしれないか、それだけに人間存在の深淵にまでとどいているような。世界と自我のつながりの根源から発するような絶望である。それには説明よりもその人自身のことばをかりてつたえた方がずっと実感的にわかるにちがいない。その人たちはこんな風にいう。

「あなた方はもう一度人間界と手をつなげとおっしゃるが、どうしたらつなげるかかわかりません。まわりと自分の間にガラスの壁みたいなものかあって、壁でスッポリつつまれているような感じです。厚いガラスの壁。私もでぎればいろいろなことをしたいのです。みんなとつきあう方がよいのだとわかつています。人間界にI緒にすむあたたかさがなければいけないのだと知っています。だけどどうすればよいのでしょう。私には『できない』のです。まおりに接触できない。隔絶されてしまったのです」。

彼は自分の前にひろがっている世界に向って手をさしのべようとする。手の指は机にふれ、壁にふれ、人にふれる。けれどもそれはふれた感覚だけで、感覚の背後に実体のある世界が実在するのだとい5ことが感じられない。眼には映っているけれども、それは映画のスクリーンにうつった景色同然、ただ眼にみえているだけで実体かない。

実在的世界と自分の間には見えない壁がたもふさがっていて、その向うにはいっていけない。(そういえばガラス窓というものは、私と向う側の世界との問を仕切るものである。すどおしのガラスとはいっても、しめた窓をとおしてながめられた外側の世界は一種の「根のなさ」「非現実性」にうきあがっている)。