2014年12月8日月曜日

内発的発展史の視角

『東アジア資本主義の形成上比較史の視点から』東アジア資本主義の現状分析によってのみこの「成長センター」のダイナミズムを究明しようという、昨今「はなやか」な、しかし「短絡的」なやり方への不満にある。東アジア資本主義が今日を築いてきたのであれば、そこにはそれだけの内在的な歴史があったはずであり、これを比較史的な方法から導出すべきだ、というのが本書の研究スタンスである。そうした研究の端緒はすでに浜下武志氏や川勝平太氏などによって開かれていたが、本書のような共同研究の成果が公刊されたことは喜ばしい。

東アジア資本主義は従来の欧米中心の経済理論では、開発経済学であれ、近代化論であれ、はたまた従属論であれ、これを十分に解明できないと中村哲氏はいう。それらに代わる理論的仮説を氏がここで提起しているわけではないが、少なくとも次の四つは新理論構築のための要件であるという。一つは、経済を社会、政治、文化等と関連させて捉えること。二つは、東アジアの各地域、民族、国家の主体性を組み入れた理論であること。三つは、歴史的観点に立った国際比較。四つは、東アジア地域の全体像の把握、である。

本書を通読して、とくに私の関心を誘ったのは第二の視角、すなわち中村氏のいう「非欧米の視点」から周辺部を眺めることの重要性である。従来の世界資本主義論は周辺部の搾取・収奪・被支配の面からこれを論じるのがつねであったが、それでは東アジアの現在の発展は説明できないという至極もっともな観点がここで提供されている。

中村氏の議論を補強しているのが、堀和生氏の秀逸な論文「植民地の独立と工業の再編・台湾と韓国の事例」である。ここでは、植民地支配期においてすでに朝鮮、台湾では資本主義的生産様式が支配的であり、それがゆえに帝国主義勢力・日本との関係断絶後も、少なからぬ変動をともないながらも、はやくも一九五〇年代に新たな発展軌道を両者が見出し得たことを明らかにしている。ある種の「内発的発展論」であろうか。

宮島博史氏の「東アジアにおける近代的土地改革―旧帝国支配地域を中心にして」では、韓国、台湾の経済発展の基礎となったのが両地域における近代的土地制度の短期における徹底的な施行にあったと主張されている。その施行を可能ならしめた東アジアの要因を、氏はこの地域が小農社会であったことに求めている。

すなわち東アジアが独立した上地経営を旨とする小農から構成され、それゆえ個々の上地に対する権利関係が比較的明瞭であったがために、土地領有権という上部構造さえ取り除かれれば、旧来の上地関係がそのまま認定されるという構造にあったという。面白い指摘である。しかし、近代的土地所有関係の変革が資本主義的発展につなかっていく経緯はなお究明されていない。

2014年11月7日金曜日

どこかしこも問題の先送り

訴えてくるのは氷山の一角ですが、それさえ抑え込めば、その背後にある何百、何千、何万のケースが抑えられることもあります。訴えが殺到するのは異常事態なのだから、なんとか事前に食い止めようということにはとても敏感で、そんなところで裁判官は、「自分が社会の秩序を維持する正義の味方だ」と思っているのかもしれません。

弁護士においても、なるべく違法なことがないように物事を解釈しようとする人がいます。「違法だとしたら、今までやっていたこともすべて違法になるから、それはおかしい」といった本末転倒の思考がときどき出てきます。本当はその考え方こそおかしいのですが、「それが実務というものなのだ」と言わしめているのが、合法的解釈に長けた「裁判実務的思考」にほかなりません。

結局、「問題かおりそうでも、なるべく問題はないに越したことはない」という気持ちがさらにオーバーランして、「問題があっても、ないことにしよう」という方向に走りがちになります。「法律違反があったかどうかは別として」などといって、とにかく事件を処理することだけが目的となり、問題を闇から闇に葬るテクニックやシステムが確立しているわけです。

本当に問題がなければそれでも良いのですが、臭いものに蓋をしているだけで、実際に問題があることには変わりかおりません。単に深刻な現実から目をそらしているだけなのです。それでも、「問題が認識されていなければ問題がないのと同じだよ」という結論だけ聞かされて、むりやり安心させられているのが日本国民のようです。