2014年9月6日土曜日

将来を予見する能力

米国の賛成とて、怪しいものである。「拒否権」なしにしろ日本を常任理事国にするということは、話にあかっている他の三国もしなければならない。ところが、ドイツは味方してくれるとはかぎらないことは実証済みだし、インドはともかくブラジルもこの点では同類だ。一人の味方を引き入れる代わりに、敵にまわる可能性少なからずの国を二つも同時に引き入れるほど、米国はお人良しであろうか。そして、ロシアと中国。もしもこの二国も拒否権なしの日本の常任理事国入りに同意するとなれば、それはもうすさまじい代償、つまりカネとの引き換えになる怖れがある。それはどの代償を払ってまで、得る価値をもつ地位であろうか。

「ハイレベル」には悪いが、安保理改革はおそらく今回も現実化しないだろう。改革の鍵をにぎる国々に、改革してトクなことは少しもないからである。ゆえに日本が為すべきことは、血迷ってわれを忘れることではなく、何をどうやればディグニティをもちつつ国連に協力できるかを、冷徹に見極わめそれをやることだと思う。古代のギリシア民族が神話・叙事詩・悲劇・喜劇を通して創造した人間の種々の相は、二千五百年が過ぎた現代でもその適確さをまったく失っていないが、その一人にトロイの王女カッサンドラがいる。

この王女に恋した男神アポロンは、将来を予見する能力を贈物にすることで彼女に迫った。目的はもちろん、ベッドを共にすること。多神教の世界であった古代では、神々といえども人間的なのである。それゆえか、その神の一人に惚れられた人間のほうも、恐縮のあまりに簡単にOKする、などということはない。カッサンドラもアポロンに、決然たる態度でNOと言う。それには怒ったアポロンだが、そこはやはり神、ならば贈物は返せなどと、ケチな人間の男のようなことは求めなかった。贈った予見能力は、以後も彼女がもちつづけることは認めたのである。ただし、ある一事をつけ加えた形で。

それは、カッサンドラがいかに将来を予見し警告を発しようと、人々からは聴き容れられず信じてもらえない、という一事だったのである。トロイは、彼女が予告したとおりに滅亡する。だが、落城時の阿鼻叫喚の中で、誰が、これを早くも予想しそれへの対策を訴えつづけていた王女を思い出したであろうか。予言しても聴き容れてもらえず、それが現実になったときでも思い出してもらえないというのだから、これ以上に残酷な復讐もない。

以後、ヨーロッパでは、現状の問題点を指摘し対策の必要を訴えながらも為政者からは無視されてきた人を、「カッサンドラ」と呼ぶことになる。まるで、有識者や知識人の別称でもあるかのように。これもまた、何かを与えれば別のことは与えないというやり方で、神でも人間でも全能で完璧な存在を認めなかった、いかにもギリシア的な人間観と言うしかない。前回でとりあげた国連改革「ハイレベル」委員会の答申を読んでいて、自然に思い浮んできたのが、日本の政府や省庁が活用しているらしい各種の審議会であった。

2014年8月9日土曜日

大変難しい高度な医療行為

わが国では、本人の了解なしに、本人以外に患者の病名や病状について話してよいということになっているのであろうか。はたして患者の家族、友人、雇い主などに患者の真実を知る権利があるのであろうか。真剣に討議しなければならない問題である。ところで、家族に告知するとした場合に、家族の中の誰に告知するのかというのも、患者本人に聞ける性質のものではないだけに、医師にとって難しい選択である。たとえば、患者の家族の中でなぜかAが頻々と病院に来て医師と親しくなっていたので、医師は、Aに患者の病名や病状を告知したとする。

ところが実は患者は、家族の中で悪巧みをもっているAだけには自分の病気について詳しく知られたくないと、内心決めていたとしたら、知らなかったとはいえ医師は患者が最もしてもらいたくないことをしてしまったことになる。こういう場合、この医師の道義的倫理的な責任はどうなるのであろうか。さらに、もし患者が恐れていたとおりにAが悪巧みを実行して、患者の財産に多大の経済的損害を与えたとしたら、医師の責任はどうなるのであろうか。この想定例のようなことはまれかもしれないが、患者本人の同意なくしてする家族への告知は、原則的には患者のプライバシーの侵害に相当する行為であるので、医師として安易にするべきではないのである。

この解決法の一案として、患者に「あなたの病気について詳しく説明させてもらいたいのですが、私の話をあなたと一緒に聞いておいて欲しいと思う家族の方や信頼されている方に連絡されてご都合を伺って下さい」と患者の意思にまかせるのは、どうであろうか。そして告知をする場合には、担当看護婦に同席してもらい、患者、家族、その他患者の希望する人にわかりやすく説明し、患者にそこに同席した人だちと相談するゆとりを与え、納得してもらうのがよいのではないかと考える。とくに、同席した看護婦には、医師の説明を噛みくだいて繰り返し解説することを期待したい。

誰が、何を、どのように告知するのか、という問題がある。先にも述べたように、告知は、大変難しい高度な医療行為なのであり、担当医であっても臨床の経験の浅い医師が安易にするべきものではない。それぞれの患者には、その人だけがもつ病態や気質があり、さらに場合によって変化する患者の気分、精神状態や感情の起伏など、考慮するべき条件がたくさんあることに十分注意して告知の時期を選ばなければならないであろう。たとえ同じ病名の病気をもつ患者がいても、それぞれの患者の年齢、性別、既往症、発病以来の経過、現在の病状や予後の見込などが同じであるはずは絶対にないのである。それだけに告知の臨床は難しいのである。