2014年8月9日土曜日

大変難しい高度な医療行為

わが国では、本人の了解なしに、本人以外に患者の病名や病状について話してよいということになっているのであろうか。はたして患者の家族、友人、雇い主などに患者の真実を知る権利があるのであろうか。真剣に討議しなければならない問題である。ところで、家族に告知するとした場合に、家族の中の誰に告知するのかというのも、患者本人に聞ける性質のものではないだけに、医師にとって難しい選択である。たとえば、患者の家族の中でなぜかAが頻々と病院に来て医師と親しくなっていたので、医師は、Aに患者の病名や病状を告知したとする。

ところが実は患者は、家族の中で悪巧みをもっているAだけには自分の病気について詳しく知られたくないと、内心決めていたとしたら、知らなかったとはいえ医師は患者が最もしてもらいたくないことをしてしまったことになる。こういう場合、この医師の道義的倫理的な責任はどうなるのであろうか。さらに、もし患者が恐れていたとおりにAが悪巧みを実行して、患者の財産に多大の経済的損害を与えたとしたら、医師の責任はどうなるのであろうか。この想定例のようなことはまれかもしれないが、患者本人の同意なくしてする家族への告知は、原則的には患者のプライバシーの侵害に相当する行為であるので、医師として安易にするべきではないのである。

この解決法の一案として、患者に「あなたの病気について詳しく説明させてもらいたいのですが、私の話をあなたと一緒に聞いておいて欲しいと思う家族の方や信頼されている方に連絡されてご都合を伺って下さい」と患者の意思にまかせるのは、どうであろうか。そして告知をする場合には、担当看護婦に同席してもらい、患者、家族、その他患者の希望する人にわかりやすく説明し、患者にそこに同席した人だちと相談するゆとりを与え、納得してもらうのがよいのではないかと考える。とくに、同席した看護婦には、医師の説明を噛みくだいて繰り返し解説することを期待したい。

誰が、何を、どのように告知するのか、という問題がある。先にも述べたように、告知は、大変難しい高度な医療行為なのであり、担当医であっても臨床の経験の浅い医師が安易にするべきものではない。それぞれの患者には、その人だけがもつ病態や気質があり、さらに場合によって変化する患者の気分、精神状態や感情の起伏など、考慮するべき条件がたくさんあることに十分注意して告知の時期を選ばなければならないであろう。たとえ同じ病名の病気をもつ患者がいても、それぞれの患者の年齢、性別、既往症、発病以来の経過、現在の病状や予後の見込などが同じであるはずは絶対にないのである。それだけに告知の臨床は難しいのである。

2014年7月18日金曜日

バランスのとれた軍縮

イニシァティヴというのは自分のほうがまず一方的に軍縮の口火を切るということですから、それ自体、非対称性をもった行動です。そこで、それに結びついた戦略構造にも非対称性が見られることになります。具体的にはINFの廃棄について、米国側が廃棄を約束したのは八五九ですが、ソ連は約二倍の一七五二を廃棄することに合意した。自分のほうが二倍ぐらいの廃棄をするというのは、これまで長々と主張されてきた「バランスのとれた軍縮」という考え方からすると、かなり型破りです。つまり、バランスとか対称性とは違う発想の芽がここに見られるわけです。

その後、ソ連の側で新しい戦略についていろいろ議論がありましたが、リーズナブル・サフィシェンシー(合理的十分性)という考えが出てきました。米国がミサイルを一つつくればソ連も一つつくる、米国と同じ量持たねばならないというのは愚かなことである、むしろ安全を増大することには何の役にも立だない、もっと違うアプローチをとろうという考え方です。私は、非対称的な防衛にまでいかない限りは、軍縮も進まないし、軍縮の方向での安全保障を確保することもできないという持論を永年述べてきたのですが、そのことが現実に、しかも超大国の一方で行われ始めた。この転換は非常に大きな変化だと思います。

首脳会談が成果を生むようになったことの基礎には、明らかに「新しい思考」による政治的リーダーシップに立脚してイニシァティヴがとられたということがあるわけで、これが一番重要な点なのです。そうでなければ首脳会談を開いても、バランスをとるといった議論に終始して、せいぜい「軍備管理」についてごく部分的に合意することで終わるといった従来のパターンのくり返しに終わったことでしょう。その意味で、米ソ首脳会談のもつ性格が、ゴルバチョフの登場以来変わったと言っていいと思います。

第二次大戦後の核軍縮の失敗の歴史をみながら、それを成功に転ずるためには一方的イェシアティヴこそが最も合理的な選択なのだと強調され、そのための内発的な自己変革が必要だといわれました。いまうかがったソ連の変化には、そのことがはっきりとみられるように思います。モスクワの首脳会談で夕食会でのあいさつの中でもゴルバチョフ書記長は、最初に「武器とははたして必要なものだろうか」という呼びかけをしています。これまでの超大国の首脳の発言にはみられなかった発想の転換が感じられます。

すでに七〇年代の終わりごろから、先生は、ソ連は変わりつつある、と私に話しておられましたが、国家と社会の二元化という形でソ連型市民社会の形成が進みつつあると話されたこともあります(『世界』一九八六年一月号)。ペレストロイカの現状にかかわってどのようにみていらっしやるか、うかがえるとありがたいのですが。ソ連経済が非常に悪化してきているために軍縮をいわざるをえなくなったのだという意見です。たしかにソ連経済が、ソ連の指導者にとってもコントロール不能な状態になっていたという面はあります。しかし、私は経済が悪くなったから軍縮を言い出したという議論は、素朴唯物論的で、単純すぎると思います。それは二つの点からです。