2013年12月25日水曜日

現在の日本の学校や教育の在り方についての批判

親子の場合は、選択によらず運命的に決定されているのだからなおさらである。どんなことがあろうと、運命的に決定づけられた関係を生き切ることが「愛」と言えるのではなかろうか。自己実現というのは、他人との関係を不問にすることはできない。家族という不可解な存在の理解を通じて、「自己」というのが理解されてくる。このようなことを言っても、馬鹿なことを言っていると思う人も多いことだろう。そんなわけのわからぬことを考えるより、もっと自分の「自由」が大切であるという人もあろう。そのような人は「家族」ということにほとんど重きをおかないだろうし、人間が一人で快適に暮らせる環境もますます整ってくるだろう。おそらくこのような生き方を望む人の方が増えてくると思う。にもかかわらず、私のような考えの人間も、少数であるにしろ、いてもいいのではと考えている。

一生、一人で暮らしていても、心のなかに私の言うような意味での「家族」をもっている人もあるので、私の考えは、人間は必ず結婚して子どもをもつべき、などというのではないことを最後につけ加えておきたい。現在の日本の学校や教育の在り方についての批判は、非常に厳しく強い。それはあらゆる機会に、あらゆる人から聞くことができる。確かに、それらは改革していかねばならない。しかし、それらがいかに困難であるかという認識はあるのだろうか。現在のことを嘆く人はすぐに、昔はよかったと言いがちである。「昔の先生は偉かった」、「昔の学校は素晴らしかった」と言う。果してそんなによかっただろうか。なかには偉い先生もおられただろうし、よい学校もあっただろう。しかし、冷静に現在と比較して、それはどもよかったと言えるだろうか。話はそれほど簡単ではない、と私は思っている。

国内ではあまり評判のよくない日本の学校も、特にその初等教育に関しては国外でむしろ高く評価する人も多かったことを、まずは指摘しておきたい。ごく簡単に言うと、少ない教師で子ども全体の学力を高め、まとめていくという点で、それは高く評価されている。欧米の一クラスの児童の数に比して、日本でははるかに多いのに、学習の効率は非常に高い。このことを、戦後の日本の経済発展の早さの原動力にあげる人さえいる。つまり、日本の労働者の知的水準が高いので、新しい技術などの導入に大いに役立った、と考えるのである。このような点を詳しく書くといくらでも書けるが、むしろ、今後の課題の方に焦点を当てるため、この点はこれで切りあげるが、以上のことは、まず明確に認識しておかねばならぬ事実である。

ところで、日本の経済が発展し、いわゆる「経済大国」になったあたりから、日本の教育に対する評価も変ってきた。これは、日本の経済力に対する攻撃も含めてのことだが、「日本人は他の真似ばかりする」、「創造的な仕事が少ない」という批判が生じてきた。日高敏隆氏もそうした批判に触れているが(「日本文化と大学の効用」『現代日本文化論』第3巻「学校のゆくえ」)、いわゆる「日本タダノリ論」である。アメリカの友人が、「日本は、先に行く者の真似をして、すぐに追いついて来たが、追い越してしまってからは誰の真似をするつもりか」と言ったことがある。自分のアイデアで、自分の発見をもとにしてトップを走ることが、日本人に可能か、というわけである。これはなかなか厳しい言葉である。これと同様の言葉を、多くの日本の政治家、外交官、ビジネスマンなどが、欧米人から聞かされたことと思う。

端的に言って、日本の教育は明治以来、「追いつけ、追い越せ」の教育であった。そして、暗々裡に、まさか追い越すことなどないと思っていたのではなかろうか。それが経済的に実現した。ところが、この追いつけ方策は、なりふり構わずであった。小学校の教育は徹底してヨーロッパをモデルに考えた。日本のもっていた多くの伝統を棄てて追いつこうとした。そして追い越そうとするときに、「お前本来のものをもっているのか」と問われることになった。いや、われわれは和魂洋才でやってきたと言う人があれば、その人に対しては、あなたの「和魂」はどんなもので、「洋」の真似をするのではなく、「洋」を追い越すときにも役立つものですか、と問わねばならない。

2013年11月5日火曜日

国王が推し進めた民主化

通信網に関しても、電話線の設置は最低に押さえられており、電話は一挙に、衛星通信、マイクロウェーブ中継によっている。そして携帯電話の普及が目覚ましく、導入以来二年ほどで、加入者は一〇万人近くに達している。もちろんティンプなどの都市部に集中しているが、それでも全人口が約六〇万人であることを考えると、高い普及率である。ブータンは全土が山岳地帯であり、集落がなく、家々が点在しているが、太陽光発電と、衛星通信、マイクロウェーブ中継により、非常に短期間のうちに、ほぼ全国に通信網が張り巡らされることになった。

政治面での第四代国王の最大の業績は、なんといっても民主化であろう。民主化の動きは、すでに「近代ブータンの父」と称えられる第三代国王ジクメードルジェーワンチュック(一九二八-七二)の治世(一九五二-七二)に始まった。一九〇七年にウギェンーワンチュック(一八六二-一九二六)により樹立されてから、第二代国王ジクメーワンチュック(一九〇五-五二。在位一九二六―五二)により基盤が固められたワンチュック世襲王制は、国王親政による絶対王政であった。しかし、第二次世界大戦後に即位した第三代国王は、時代の流れを先読みし、国会の設立(一九五三年)、奴隷制の廃止(一九五六年)といった一連の先進的政治・社会改革を敢行し、ブータンを中世から一挙に近代にもたらした。

国会は設立当初、その決議が効力を持つのには国王の承認が必要であった。つまり国王には否認権が認められていた。ところが一九六八年に、第三代国王自らがこの否認権を放棄し、国会はブータンの最高立法機関となった。翌一九六九年には国王自ら、「国会は国王不信任案を提出でき、それが三分二以上で可決された場合、国王は退位し、王位を皇太子に譲らねばならない」という追加条項を提案した・前年の否認権の放棄に続く矢継ぎ早の革新的な提案で、第三代国王の急進的な政治改革意識に、国会のほうがたじろいだ感じであった。しかし審議の末、結局は承認されることになった。

その三年後一九七二年に第三代国王が急逝し、皇太子が弱冠ヱハ歳で第四代国王として即位した。規定では新国王の成人まで摂政が任命されることになっていたが、国会は、新国王は若年とはいえすでに成熟しており、自ら統治できると判断し、国王親政となった。実質上は、母君である皇太后による「院政」であった。いずれにせよ、翌一九七三年には、今度は国会側の発議で、国王不信任案条項が廃止され、一九六九年以前の体制に逆戻りすることになった。そして、一九八〇年代には皇太后「院政」から、徐々に完全な国王親政に移っていった。

一般に国王親政と言うと、専制政治が思い浮かび、否定的な評価が付きまとう。しかしブータンの場合、第四代国王はけっして威圧的な存在ではなく、国民からの絶大な尊敬と信任を得ていた。にもかかわらず国王は、世襲王制に関して「一人の人間が、その能力のいかんに拘わらず、その生まれによって、一国の最高責任者になるという制度は、けっして最上の政治形態であるとは思わない」という旨の発言を繰り返した。と同時に、第三代国王に倣って、まだ政治意識の薄い国民に先駆けて、自ら民主主義体制を整備する措置を次々に採り、むしろ政府、国民のほうが後を追いかける形となった。国王は、国民参加型の責任ある政府づくりという目標に向かって、ゆっくりとした、しかし堅実な歩調で、根本的な改革を着実に導人した。