2013年7月4日木曜日

これまでの自分へのご褒美

このように利得とタテマエと両方の言い訳があれば、人間は抵抗少なく購買行動に走ります。決して安くないハイブリッドカー、レクサスブランドならなおさらですが、それが売れていることには、価格よりも「言い訳」の方がキーファクターになっていることがよく表れています。地上波デジタル化対応の液晶テレビの売れ行きが良かったのも同じ理由です。命の次に大切なテレビが映らなくなってしまうかもしれないのは困るから、というのは高齢者にとって最高の言い訳です。ついでにいえば、買い替えた方が省エネになるという言い訳もくっついています。これらが言い訳である証拠に、高価な大画面のものもよく売れている。「どうしても買い替えないわけにいかないから」と世間と自分に対してつまらぬ言い訳をしておいて、実際には大きい画面で見たいという欲求を満たしているのです。

以上は「得だから」「省エネだから」というような言い訳で売れているものでしたが、数ある「言い訳」の中でも特に強力なのは、「これは数少ない自分の趣味の関係のものだから」という奴です。「自分へのご褒美もたまにはいいじやあないか」ということですね。たとえば景気が急に悪化した○八年のこ一月に、フェアレディZがフルモデルチェンジしましたが、翌年聞いたところではやっぱり計画の二倍売れたそうです。ちなみに日本ではフェラーリも相変わらずよく売れていますし、ハーレーダビッドソンは二四年も連続で販売台数が増えているそうです。国内の二輪車市場が全体では最盛期の十数%にまで縮小してきたことの影響を一切受けていないのはなぜなのか。Zもフェラーリもバーレーも、青春時代の憧れにこだわる元若者(H定年退職前後の人たち)を相手にした商品だからです。

子供が巣立ち家のローンも片付いて余裕の出てきた彼らが、「これまでの自分へのご褒美」ということで、退職金の一部でもつぎ込んでくれるだけで、売上は確保できるわけです。フェラーリやバーレーの売上の過半が、関連するグッズやサービスであるという事実も、高齢者市場を相手にする際にはニッチな趣味人にフォーカスすることが大事だということを、象徴的に示しています。この話にはもちろん難点もあります。難しいことだから、企業がなかなか手をつけないのです。何か難しいのか。高齢者の個別の好みに対応してカスタマイズした商品を出そうとすれば、生産ロットがどうしても小さくなるので、自然体でやっていては商品一個当たりの生産コストが大きく増えてしまいます。ところがそのコストをそのまま価格転嫁してしまいますと、値段が極端に高くなって、貯蓄防衛意識の強い高齢者は買ってくれなくなります。実際にはうまく前述の「言い訳」を商品に付随させることで、ある程度までの値上げは可能ですが、それでも生産コスト上昇分をすべて吸収するのは相当に困難です。

ということで成功のカギは、①高齢者の個別の好みを先入観を排して発見すること、②高齢者が手を出す際に使える「言い訳」を明確に用意することに加え、③多ロット少量生産に伴うコスト増加を消費者に転嫁可能な水準以下に抑えること、になります。私はこの③を「値上げのためのコストダウン」と呼んでいます。世界市場を相手に廉価大量生産販売に特化してきた大企業には不得手、ないしロット的に魅力とは映らない領域ですが、今世紀の日本で成功している企業は大なり小なり必ずこれに取り組んでいます。コンビニエンスストアやユニクロ、野菜を多用するようになった最近の日本マクドナルドなどは、その典型ですね。これらは大企業ですが、一般にはむしろ、市場規模の限定された特定地域において特色あるローカルな需要に対応してきた地方の中小企業にこそ、これに対応する能力が培われていることが多いのです。彼らの中から次代を担う群雄が続々出てくることでしょう。

生前贈与促進で高齢富裕層から若い世代への所得移転を実現まずは企業が長期的な生き残りのために自分で、ということを強調して参りました。ですがそこで終わりますと、政府の役割に触れないのはけしからんと言われます。たとえば「若者への人件費増額に前向きな企業に補助金を支給しろ」というご意見が出るわけですが、私は各企業が冷静に真剣に金儲けすれば解決するような分野にまで税金の投人を求める方々の思考回路に、強い違和感を覚えます。先はども申し上げましたが、年間四〇兆円程度の税収しかないにもかかわらず八〇兆円以上を使っている日本政府に、これ以上どの程度のことを期待できるのでしょうか。さらに申し上げれば、若者への所得移転促進の直接の受益者は、政府よりも企業です。政府は若い世代からだけではなく高齢者からも税を徴収できますし、高齢富裕層に国債を売ることで目先の資金繰りをつけることもできます。

2013年3月30日土曜日

神様が撮った写真

そう言われても、身近にそんな音が聞こえてくるものは見当たらないと言われるかもしれませんが、そんなことはありません。撮ってみたいと思うものが、必ずいくつかはあるはずです。実はそれが音の発信源なのです。ただ、レンズを向けるにはまだ音が小さすぎると感じているだけです。ファインダーをのぞいたまま、シャッターを押そうかどうしようかと迷っている状態です。そんなとき「何か」が画面の中に飛び込んでくると、俄然、音が大きくなり、それがファインダーの中の主題に関連したものだったり、主題を盛り上げるものであれば、その音はさらに増幅され、「おツ、これはいい写真になりそうだ」ということになるのです。

写真は引き算だ、と言う人がいます。良い写真を撮るには、画面の中に余計なものを写さないことだというのです。画面を単純化することで、主題を強調するテクニックです。そういう考え方も否定はしませんが、筆者は引き算よりも、むしろ足し算を心がけるほうがよいのではないかと思います。画面の中から余計なものを追い出すことに神経を使うより、主題に照準を合わせながら、これからファインダーの中に入ってくるものを予測しながら撮るやり方です。良い写真というのは、一枚の画面の中に必ず、訴えるもの、興味を惹くものを二つ以上持っています。二つ以上の「なるほど」を写し込まなければ、良い写真にはならないということです。写真は目で読み、目で聞くものだからです。

写真の見方が分からない、どういうのが良い写真なのかよく分からない、という人がいます。作品を判断するのに何か定規のようなものがあって、それを当ててやれば自分の写真の良し悪しが分かるのではないか、というのです。一般に、自分が見たものを人に伝える方法には、「言葉で話す」「文章にして伝える」「映像で伝える」の三つがあります。一見、それぞれ別のように見えますが、実は話しているときも文章を読んでいるときも、頭の中には、その内容が映像として浮かんでいます。映像は、話や章の内容や表現が変わるにつれて、次々と変わってゆきます。言葉で話しているときも文字を読んでいるときも、映像を連想させているのです。その逆が写真で、写真は、映像から文字や言葉を感じさせてくれるのです。

私は写真展や新聞、雑誌の中で「いいな」と思う写真に出会ったときは、自分はいま写真を見ているのではない、写真が捉えたその場に立ち会っているのだ、と思うようにしています。人が撮ってきたモノとして、一歩引いたところで鑑賞するのではなく、自分も同じ現場でこのシーツを見ているのだと考えるのです。そうして、画面の中の人の声や周囲の音、匂い、モノの感触まで想像するのです。

写真は、単なる紙の上の二次元の世界で片づけてしまうと、味も素っ気もないものになりますが、映像の中に入り込んでみると、まるで生きているように活気づいてきます。いい写真だな、と思ったら忍者のように作品の中にもぐり込む、孫悟空やドラえもんになって自由にその空間と時間を飛び回ってみるのです。写真は実際にあった、ある瞬間を記録したものです。まだ見たことのない、めずらしい風景や人びとの生活の場に直接つれていってくれます。古いアルバムを開け、祖父母といっしょに写っている写真にもぐり込むと、子供の頃に戻って祖父母の声が聞こえてきます。