2013年3月30日土曜日

神様が撮った写真

そう言われても、身近にそんな音が聞こえてくるものは見当たらないと言われるかもしれませんが、そんなことはありません。撮ってみたいと思うものが、必ずいくつかはあるはずです。実はそれが音の発信源なのです。ただ、レンズを向けるにはまだ音が小さすぎると感じているだけです。ファインダーをのぞいたまま、シャッターを押そうかどうしようかと迷っている状態です。そんなとき「何か」が画面の中に飛び込んでくると、俄然、音が大きくなり、それがファインダーの中の主題に関連したものだったり、主題を盛り上げるものであれば、その音はさらに増幅され、「おツ、これはいい写真になりそうだ」ということになるのです。

写真は引き算だ、と言う人がいます。良い写真を撮るには、画面の中に余計なものを写さないことだというのです。画面を単純化することで、主題を強調するテクニックです。そういう考え方も否定はしませんが、筆者は引き算よりも、むしろ足し算を心がけるほうがよいのではないかと思います。画面の中から余計なものを追い出すことに神経を使うより、主題に照準を合わせながら、これからファインダーの中に入ってくるものを予測しながら撮るやり方です。良い写真というのは、一枚の画面の中に必ず、訴えるもの、興味を惹くものを二つ以上持っています。二つ以上の「なるほど」を写し込まなければ、良い写真にはならないということです。写真は目で読み、目で聞くものだからです。

写真の見方が分からない、どういうのが良い写真なのかよく分からない、という人がいます。作品を判断するのに何か定規のようなものがあって、それを当ててやれば自分の写真の良し悪しが分かるのではないか、というのです。一般に、自分が見たものを人に伝える方法には、「言葉で話す」「文章にして伝える」「映像で伝える」の三つがあります。一見、それぞれ別のように見えますが、実は話しているときも文章を読んでいるときも、頭の中には、その内容が映像として浮かんでいます。映像は、話や章の内容や表現が変わるにつれて、次々と変わってゆきます。言葉で話しているときも文字を読んでいるときも、映像を連想させているのです。その逆が写真で、写真は、映像から文字や言葉を感じさせてくれるのです。

私は写真展や新聞、雑誌の中で「いいな」と思う写真に出会ったときは、自分はいま写真を見ているのではない、写真が捉えたその場に立ち会っているのだ、と思うようにしています。人が撮ってきたモノとして、一歩引いたところで鑑賞するのではなく、自分も同じ現場でこのシーツを見ているのだと考えるのです。そうして、画面の中の人の声や周囲の音、匂い、モノの感触まで想像するのです。

写真は、単なる紙の上の二次元の世界で片づけてしまうと、味も素っ気もないものになりますが、映像の中に入り込んでみると、まるで生きているように活気づいてきます。いい写真だな、と思ったら忍者のように作品の中にもぐり込む、孫悟空やドラえもんになって自由にその空間と時間を飛び回ってみるのです。写真は実際にあった、ある瞬間を記録したものです。まだ見たことのない、めずらしい風景や人びとの生活の場に直接つれていってくれます。古いアルバムを開け、祖父母といっしょに写っている写真にもぐり込むと、子供の頃に戻って祖父母の声が聞こえてきます。

2012年12月25日火曜日

排卵誘発剤の開発

その後排卵誘発剤の開発によって、多胎妊娠が頻発したので一九六〇年代後半から一九七〇年代、不妊治療のことはあまり話題にのぼらなかった。通常なら、排卵時に左右どちらかの卵巣から一個の卵胞が成熟して一個の卵を放出するのだが、排卵誘発剤を使うと、人工的に数個から十数個の卵胞を成熟させることができる。そのため人工授精をした場合、卵子の数の多さによって妊娠のチャンスがふえることになる。実際この不妊治療により、五ッ子ちゃんとか六ッ子ちゃんなどの誕生があった。

一九七八年の体外受精によるルイーズちゃんの誕生は、衝撃的であった。新聞には「試験管ベビーの誕生」と書いてあったと思う。この瞬間、私は試験官の中で精子と卵子が振りまぜられ、それが科学技術の力によって受精し、1ヵ月後には、そこからオギャアと赤ちゃんが生まれ出るような錯覚を抱いたものであった。

体外受精というのは排卵誘発剤によって成長した多数の卵ドを採卵して、それを、「栄養液の入った清浄な無菌皿に置き、射精したばかりの精子と混ぜ合わされる。この皿にふたをして、ふつうの体温に合わせてセットした培養器に入れ受精を待ち、一、二日ガラス容器内で培養して、これを女性のドー内に移すものである。日本で体外受精による赤ちゃんが生まれたのは、一九八三年、東北大学においてである。

さて子宮に移す際には、試験管内で受精した卵を三、四個移し、その他残りの受精卵を摂氏零下一九六度の液体窒素で凍結して保存する。これが凍結受精卵で、一九八九年のクリスマスに誕生し九日本初の女児双子の凍結受精卵児は、先に保存した受精卵四個のうち、解凍して正常に分裂した二個を子宮に戻し、二個が着床したものである。最近の不妊治療では、ギフト法(配偶乙ナ卵管内移殖法)と呼ばれる体外受精の改良型が開発されている。これは取り出した卵子を精子と一緒にして、受精を待たずに女性の卵管へ戻す方法で、この方法では女性の、「左右どちらかの卵管が通じていなければならないが、採卵当日に卵管に戻すので培養時間が短く、成功率は高いと言われている」(『朝日新聞』一九九一年三月二七日)そうだ。

これは、Y子さん前節が最後に受けそこね、「もう不妊治療ばかりに翻弄される人生はやめた!」と決心させた、あの方法である。この他、男性不妊に対する研究も徐々に進められつつあるが、こうしてみていくと、人の誕生って何だったのだろうと考えてしまう。これまで何よりも、情緒的な愛やいたわりや、心と身体のふれ合いが、誕生には不可欠だった。それなのにいま、不妊治療で行なわれる生命の創造は、非常なハイテクの管理下で、多量の薬物と高度な先端医療技術を使い、人間的ぬくもりをむしろ排除した冷たい器機類に囲まれて行なわれている。さらに。人間製造の袋のごとく化した不妊女性の身体に対して加えられる技術の介入は、これでもかこれでもかと、天井を知らない。