2012年12月25日火曜日

排卵誘発剤の開発

その後排卵誘発剤の開発によって、多胎妊娠が頻発したので一九六〇年代後半から一九七〇年代、不妊治療のことはあまり話題にのぼらなかった。通常なら、排卵時に左右どちらかの卵巣から一個の卵胞が成熟して一個の卵を放出するのだが、排卵誘発剤を使うと、人工的に数個から十数個の卵胞を成熟させることができる。そのため人工授精をした場合、卵子の数の多さによって妊娠のチャンスがふえることになる。実際この不妊治療により、五ッ子ちゃんとか六ッ子ちゃんなどの誕生があった。

一九七八年の体外受精によるルイーズちゃんの誕生は、衝撃的であった。新聞には「試験管ベビーの誕生」と書いてあったと思う。この瞬間、私は試験官の中で精子と卵子が振りまぜられ、それが科学技術の力によって受精し、1ヵ月後には、そこからオギャアと赤ちゃんが生まれ出るような錯覚を抱いたものであった。

体外受精というのは排卵誘発剤によって成長した多数の卵ドを採卵して、それを、「栄養液の入った清浄な無菌皿に置き、射精したばかりの精子と混ぜ合わされる。この皿にふたをして、ふつうの体温に合わせてセットした培養器に入れ受精を待ち、一、二日ガラス容器内で培養して、これを女性のドー内に移すものである。日本で体外受精による赤ちゃんが生まれたのは、一九八三年、東北大学においてである。

さて子宮に移す際には、試験管内で受精した卵を三、四個移し、その他残りの受精卵を摂氏零下一九六度の液体窒素で凍結して保存する。これが凍結受精卵で、一九八九年のクリスマスに誕生し九日本初の女児双子の凍結受精卵児は、先に保存した受精卵四個のうち、解凍して正常に分裂した二個を子宮に戻し、二個が着床したものである。最近の不妊治療では、ギフト法(配偶乙ナ卵管内移殖法)と呼ばれる体外受精の改良型が開発されている。これは取り出した卵子を精子と一緒にして、受精を待たずに女性の卵管へ戻す方法で、この方法では女性の、「左右どちらかの卵管が通じていなければならないが、採卵当日に卵管に戻すので培養時間が短く、成功率は高いと言われている」(『朝日新聞』一九九一年三月二七日)そうだ。

これは、Y子さん前節が最後に受けそこね、「もう不妊治療ばかりに翻弄される人生はやめた!」と決心させた、あの方法である。この他、男性不妊に対する研究も徐々に進められつつあるが、こうしてみていくと、人の誕生って何だったのだろうと考えてしまう。これまで何よりも、情緒的な愛やいたわりや、心と身体のふれ合いが、誕生には不可欠だった。それなのにいま、不妊治療で行なわれる生命の創造は、非常なハイテクの管理下で、多量の薬物と高度な先端医療技術を使い、人間的ぬくもりをむしろ排除した冷たい器機類に囲まれて行なわれている。さらに。人間製造の袋のごとく化した不妊女性の身体に対して加えられる技術の介入は、これでもかこれでもかと、天井を知らない。


2012年9月3日月曜日

絶望にいきつく道

絶望にいきつく道では悲哀からさらに力つきて最後にいたる道がもっともなだらかな道だろうが、これと別に自分のあるく道が先方からふさがれて、世界とのつながりが断たれてしまうこともある。自分は生きたいのだが、まわりが生かしてはくれないといった場面におかれれば、私どもはいやおうなしに絶望させられてしまう。戦場で敵軍の重囲におちいり、脱出ののぞみなく、そうかといって降伏もゆるされぬような極限の状況、あるいは逃走中の重犯罪者が、自分のすぐそばまで逮捕の網が近づいてきたのを察したときなどがそれだということは説明するまでもない。

だれにもそれとすぐ納得のいくこうした絶望のほかに、まだ絶望の道かおる。それはごくありきたりのものではないかもしれないか、それだけに人間存在の深淵にまでとどいているような。世界と自我のつながりの根源から発するような絶望である。それには説明よりもその人自身のことばをかりてつたえた方がずっと実感的にわかるにちがいない。その人たちはこんな風にいう。

「あなた方はもう一度人間界と手をつなげとおっしゃるが、どうしたらつなげるかかわかりません。まわりと自分の間にガラスの壁みたいなものかあって、壁でスッポリつつまれているような感じです。厚いガラスの壁。私もでぎればいろいろなことをしたいのです。みんなとつきあう方がよいのだとわかつています。人間界にI緒にすむあたたかさがなければいけないのだと知っています。だけどどうすればよいのでしょう。私には『できない』のです。まおりに接触できない。隔絶されてしまったのです」。

彼は自分の前にひろがっている世界に向って手をさしのべようとする。手の指は机にふれ、壁にふれ、人にふれる。けれどもそれはふれた感覚だけで、感覚の背後に実体のある世界が実在するのだとい5ことが感じられない。眼には映っているけれども、それは映画のスクリーンにうつった景色同然、ただ眼にみえているだけで実体かない。

実在的世界と自分の間には見えない壁がたもふさがっていて、その向うにはいっていけない。(そういえばガラス窓というものは、私と向う側の世界との問を仕切るものである。すどおしのガラスとはいっても、しめた窓をとおしてながめられた外側の世界は一種の「根のなさ」「非現実性」にうきあがっている)。