2012年9月3日月曜日

絶望にいきつく道

絶望にいきつく道では悲哀からさらに力つきて最後にいたる道がもっともなだらかな道だろうが、これと別に自分のあるく道が先方からふさがれて、世界とのつながりが断たれてしまうこともある。自分は生きたいのだが、まわりが生かしてはくれないといった場面におかれれば、私どもはいやおうなしに絶望させられてしまう。戦場で敵軍の重囲におちいり、脱出ののぞみなく、そうかといって降伏もゆるされぬような極限の状況、あるいは逃走中の重犯罪者が、自分のすぐそばまで逮捕の網が近づいてきたのを察したときなどがそれだということは説明するまでもない。

だれにもそれとすぐ納得のいくこうした絶望のほかに、まだ絶望の道かおる。それはごくありきたりのものではないかもしれないか、それだけに人間存在の深淵にまでとどいているような。世界と自我のつながりの根源から発するような絶望である。それには説明よりもその人自身のことばをかりてつたえた方がずっと実感的にわかるにちがいない。その人たちはこんな風にいう。

「あなた方はもう一度人間界と手をつなげとおっしゃるが、どうしたらつなげるかかわかりません。まわりと自分の間にガラスの壁みたいなものかあって、壁でスッポリつつまれているような感じです。厚いガラスの壁。私もでぎればいろいろなことをしたいのです。みんなとつきあう方がよいのだとわかつています。人間界にI緒にすむあたたかさがなければいけないのだと知っています。だけどどうすればよいのでしょう。私には『できない』のです。まおりに接触できない。隔絶されてしまったのです」。

彼は自分の前にひろがっている世界に向って手をさしのべようとする。手の指は机にふれ、壁にふれ、人にふれる。けれどもそれはふれた感覚だけで、感覚の背後に実体のある世界が実在するのだとい5ことが感じられない。眼には映っているけれども、それは映画のスクリーンにうつった景色同然、ただ眼にみえているだけで実体かない。

実在的世界と自分の間には見えない壁がたもふさがっていて、その向うにはいっていけない。(そういえばガラス窓というものは、私と向う側の世界との問を仕切るものである。すどおしのガラスとはいっても、しめた窓をとおしてながめられた外側の世界は一種の「根のなさ」「非現実性」にうきあがっている)。

2012年8月1日水曜日

ルーズベルトとニューディール

著名な民主党の大統領フランクリン・ルーズベルトは、一九二九年の経済恐慌をきっかけに国民の間に高まった共和党政権批判を背景にして、三三年に大統領に就任した。当然その一連の政策は、厳しい企業規制が中心となった。経済恐慌を引き起こしたのは、利益にのみこだわったアメリカの私企業の活動が原因であったとされたからである。

ルーズベルトの一連の政策をニューディールと称するが、この総称のもとで、企業規制のためのさまざまな政府機関が設立された。崩壊した株式市場の規制のためには証券取引委員会(SEC)ができたし、国民の重要な通信手段である放送事業を管理するためには連邦通信委員会(FCC)が、海運業の監督のためには合衆国海事委員会(USMC)が設立されるといった具合に、経済活動の多くの側面に政府の規制の手がおよぶことになった。

このような行政委員会がワシントンにあふれただけではなく、すべての委員会は英語の頭文字だけからなる略称で呼ばれたから、「ニューディールとはアルファベットスープである」などといわれたのもこのころである。

当時もいまも、企業の経営者などを主な読者とするアメリカのビジネス雑誌「フォーチュン」誌は、その当時の新しいアメリカの状況を指して、リンカーンの言葉をもじりながら次のように嘆いた。

政府がみずから企業の自由な活動を禁止するようになったこの国は、すっかり変わりはててしまった。これはもはや国民のための政府などではない。これは委員会による委員会のための委員会に属する政府だ。
ルーズベルトは行政委員会の設立のほかにも、勤労者の保護のための立法措置を講じたり、国家による農作物の買い上げ制度を実施して、農民の保護にあたった。あるいは、基幹的な産業を国家の強い規制のもとにおいただけではなく、連邦政府もみずから生産活動にのり出している。

テネシー渓谷公団がその最も代表的な例だが、政府はダムを建設して電力をつくっただけではなく、その電力を利用して肥料生産にまで手を出した。そうしてテネシー渓谷一帯の貧しい農民を救済しようとした。